『CRIMES OF THE HEART』
タイトル:『CRIMES OF THE HEART』
作: ベス・ヘンリー
翻訳: 浦辺千鶴
演出: 小川絵梨子
■■出演
安田成美
那須佐代子
伊勢佳世
渚 あき
斉藤直樹
■■スタッフ
美術:深瀬元喜
照明:原田保
音響:福澤裕之
衣装:前田文子
ヘアメイク:鎌田直樹
演出助手:長町多寿子
舞台監督:二瓶剛雄
演出部:N.E.T ON
梅畑千春 久保勲生
照明部:クリエイティブ・アート・スィンク
松井義之 原田飛鳥
ムービープログラマー: 藤巻聰
音響部:フリックプロ
櫻内憧海
衣装部:米田三枝子
ヘアメイクスタッフ:伊藤こず恵
大道具:C-COM 伊藤清次
小道具:高津装飾美術 天野雄太
特殊小道具:アトリエ・カオス 白石敦久
特殊効果:インパクト 野本孝行
衣装製作:東京衣装 本多あゆみ 森田恵美子
化粧品協力:コスメ・ソフィア
楽器:三響社 岸 拓央
サックス指導:小林洋平
舞台製作:クリエイティブ・アート・スィンク
加賀谷吉之輔
宣伝美術:藤江淳子 惠藤修平
宣伝写真:引地信彦
宣伝衣装:関けいこ
宣伝ヘア:山本リエコ
宣伝メイク:小森由貴
宣伝ヘアメイク(斉藤直樹):伊藤こず恵
協力:コッカ
COME TRUE
吉住モータース
ホリプロ・ブッキング・エージェンシー
ジャニーズ事務所
版権コーディネーター:マーチン・R・P・ネイラー
宣伝:吉田プロモーション
票券:インタースペース
制作:七字紗衣 武冨佳菜
企画:中嶋しゅう
プロデューサー:江口剛史
主催・製作:シーエイティプロデュース
■■日程・場所
2017年9月2日(土)〜9月19日(火)@東京・シアタートラム
2017年9月22日(金)@神奈川・やまと芸術文化ホール メインホール
《感想文》ABSORPTION AND THEATRICALITY
アメリカ・ミシシッピー州のとある一家の三姉妹の人生模様を描いた作品。「ミシシッピー州ってどこ?」って多くの日本人は思うことでしょう。これ、昨年も同じようなことを思ったことがあって、「オクラホマ州ってどこ?」って書いた気がする。ほらこれ!
これって、たまたまだろうか? 日本人が一番想像しづらいアメリカの南部や中西部を舞台とした作品が、最近立て続けに日本で上演されるというのは何故だ?
ただ、あれだね、『CRIMES OF THE HEART』も『8月の家族たち』もどちらともピューリッツァー賞をとっているということは、アメリカ国内において南部や中西部を舞台とした作品が一定数の評価を得るという構図があるのでしょう。
アメリカについて言えば、これもたまたまだけど、女優のエマ・ストーンが出演している『ラ・ラ・ランド』と『バードマン』を最近続けて観たのだけど、作品のタッチは全く異なるけれど、扱っているテーマは全く同じだった。
バードマン
テーマは「アメリカ東西カルチャー・価値観の齟齬」。西海岸カルチャーのあからさまな商業主義を批判するというか、鼻で笑いつつも、それと同時に東海岸カルチャーの旧態依然な有様をこちらはこちらで皮肉るという。
ただ、このテーマは紋切り型で今更感が拭えない。確かに『ラ・ラ・ランド』の結末は捻くっていたけれども、アメリカ人があの結末を肯定するまでにはまだまだ時間がかかるでしょ。 だって見返りのない美徳なんて、アメリカ人はまったく興味ないじゃん!
日本からアメリカをみると地域差というのはほとんど感じられなくて、総じて商業主義の国というふうにしか見えないけれど、先の大統領選が象徴しているように、アメリカの中身は決して一枚岩ではなく、またアメリカ国内における一方向的な価値観が崩れてきているのでしょう。
東海岸的なるもの、西海岸的なるもの、南部的なるもの、北部的なるもの、様々な環境、価値観のなかで一体なにをどうすればいいのか?
アメリカ人自身が悩んでおり、よくわからんけど、とりあえず全てを見直してみようということで、こういったアメリカの様々な地域の、その地域ならではの事情が色濃く出た作品が出てきていて、高く評価されているのでしょう。
さて、『CRIMES OF THE HEART』に話を戻すけど、ミシシッピー州のとある田舎町が舞台で、というかミシシッピー州自体が田舎なのだけど、だって、あれだよ、 Country Roads っていう ふるさと感いっぱいの名曲を知ってる?
この曲で歌われているのはウエスト・ヴァージニア州なのだけど、ここってワシントンD.Cのちょっと下くらいだよ。ミシシッピー州なんて、その先の先の先くらいだよ。ど田舎だよ。
ミシシッピー州は典型的な南部で、この作品は1970年代を舞台にしているから、ちょうど黒人公民権運動が活発化していたころで、ベトナム戦争やら、他にも色々と問題があって、アメリカ全体が揺れていた時代だね。
『CRIMES OF THE HEART』という作品が興味深いのは、ミシシッピー州のとある一家の三姉妹に、この土地に生まれた人々が生きる道の典型パターンを当てはめているという点。
(1) レニー・マグラス(長女)
祖父の世話をしながら実家で暮らす。40歳で未婚。じぶんが子どもを産めない体質であるということから、結婚に対してどんどん臆病になっている。
(2) メグ・マグラス(次女)
歌手になる夢を追い、ミシシッピーを出て、ハリウッドのお膝元・ロサンゼルスに移住しているが、音楽の仕事はすでにやめている。
(3) ベイブ・ボトレル(三女)
地元の名士と結婚する。だからといって幸せかというと...
彼女らがある意味、大多数の人々の人生の何かしらを語っている。これはミシシッピーに限ったことではなく、全ての田舎町に通じているし、都市部に住む人であっても何かしら引っかかるところがある。
例えば、長女レニー
彼女のように40歳を過ぎても結婚できない人は多々いる。彼女の事情や思いというのはすごく共感できて、次女、三女というのは自分勝手で自由奔放だから、祖父の世話なんてしない。だから私がやるしかないと実家に留まり、男性と会うチャンスに恵まれない。また婚期を逃すとだんだん弱気になってきてますます結婚に億劫になってしまう。わかるわー 汗。。。
男も女とそんなに変わらなくて、僕なんかも大学出てからずっと仕事ばかりしていて、当初は独立しようと思っていたから忙しかったし、生活が安定しないから結婚どころじゃない。そうこうしているうちに歳を重ねてしまって、独立をあきらめて就職したのはいいけれど、「大手じゃなくてベンチャー企業に勤めている奴を好んで結婚する女なんているのか? 」なんて弱気になってどんどん結婚から遠ざかってしまう.... あるある 汗。。。
それから次女のメグ
この時代はアメリカの多くの若者が西海岸に流れていったんだよね。どちらかと言えば、ロサンゼルスよりもサンフランシスコに流れた若者が多かったと思うけど、いわゆるヒッピーカルチャーって奴で、これは明らかに東海岸の旧態依然のアメリカを否定して、アメリカのなかでもさらに自由な、というか自由に感じられる西海岸へ若者が向かった。イメージ的にはジャニス・ジョプリンなんかがそうかなー
次女のメグもそうだし、こういうメンタリティーの若者が数多く発生したというのは事実だし、誰しもこういう想いを持った時期があったと思うけど、この意志を貫くのはけっこう難しい。なぜならば、誰しもそれなりに稼いでいかねばならないし、生活という問題からは逃げられないから。
あと三女のベイブ
地元の名士と結婚して地元に残るっていうのは、親は一番喜ぶよね。でも、相手が本当にいい人だったらいいけど、そうとは限らない。名士というからには、やっぱり色々あるわけだよね。その彼の知ってはいけない一面を知ってしまったり、あるいは逆に自分の知られたくない一面を知られてしまったり...
あとネタバレになるけれども、ベイブは黒人男性と恋仲になっていたんだよね。この経緯は旦那さんがベイブを先に裏切ったからなのか、よくわからないけれども、不倫は不倫だし、しかもこの時代の名家(白人)で、黒人と恋仲になるとそりゃ、とんでもないことになってしまうよな...
そんなこんなで三姉妹各々に深刻な事情がある。それに対して彼女たちはどのように生きていこうとするのか? そして、そんな彼女たちをどのように描くのか?
この作品がもっとも優れているのがまさにここ!
このようなシチュエーションにおいて、どのように描くことを求められるのか? かなりざっくりとした議論に留めるけれども、演劇あるいは芸術においては二つのアプローチが対峙されている。
1. ABSORPTION (没入)
2. THEATRICALITY(演劇性)
これはマイケル・フリードという美術批評家が提示した問題構制なのだけど、例えば、次の2つの絵画を見比べてみる。
(1)シャルダン「トランプの城」
(2)ベラスケス「ラス・メニーナス」
この2枚の作品は、実は相当考え抜かれた世界構造を提示しているのだけど、さわりだけ判別すると、(1)の絵画の少年は、我々鑑賞者なんて存在を意識することなくトランプに没入しているよね。対して(2)の絵画に出てくる人々は、絵を鑑賞している我々の方を見ているよね、簡単に言えば、彼彼女らは、我々鑑賞者のまえで演じているよね。
それで、平たく結論を言えば、(1)と(2)のどちらが評価されるかと言えば(1)で、つまり現実世界において誰かに見られている、見られていることをずっと意識して暮らしていることってある? ないでしょ。まさか自分を美術館に飾られている絵だと思って、絶えず来館者に見られていると思いながら生きている人なんていないよね。いたらヤバいよ。
絵画や演劇といっても、単なるエンターテイメントは別として、何かしらの世界を提示するわけだから、そこにはリアリティーがなければならない。リアリティーが感じられないならば、それは単なるでっち上げでしかない。
そういった訳で、(1)のほうが(2)よりもリアリティーが感じられるので良いとされる。
※ ちなみに、これはあくまでも触りであって、実際はこんな簡単な話ではないです。(1)シャルダンの絵画や(2)ラス・メニーナスについて知りたい人は次の本を自分で読んでください。
Absorption and Theatricality: Painting and Beholder in the Age of Diderot
- 作者: Michael Fried
- 出版社/メーカー: Univ of Chicago Pr (Tx)
- 発売日: 1988/10
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- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,渡辺一民,佐々木明
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では、『CRIMES OF THE HEART』はどうか?
実はというと『CRIMES OF THE HEART』は、上記のリアリティーの定義をもう一段階ひっくり返して描いている。どういうことかと言うと、この三姉妹は各々深刻な問題を抱えている。上記の対比で考えれば、この作品にリアリティーを出すためには、この三姉妹が各々が抱えている深刻な問題を直視して、これらの問題に没入して、真っ正面からぶつかり、克服してゆく姿を描くことが求められる。
だが『CRIMES OF THE HEART』におけるこの三姉妹は、各々が抱えている深刻な問題を直視しているようには全く感じられない。終始笑いが絶えないし、まるでコメディドラマを観ているかのようなのだ。これはもう「演技」以外の何ものでもない。上記の定義からすれば、「没入」している感じがなく、全くリアリティーが感じられないということで駄作と評価されてもおかしくない。
しかし、ここが重要なポイントで、結論を言えば、彼女たちは一見、深刻な問題から目をそらしているようだけれども、そうではない。彼女たちは深刻な問題に向き合っているし、実際にそれらの問題からは逃げられない。にもかかわらず、彼女たちはあたかも深刻な問題なんてないかのように日々生きているのだ。
つまり、『CRIMES OF THE HEART』は、「没入」ではなく「演劇性」にこそリアリティーが宿るのだということを、三姉妹の振る舞いによって緻密に描いており、この主張が、非常にうまく表現できている。
そして、本作品において、兎にも角にも良かったのが女優たち。
長女を演じた那須佐代子さん
次女を演じた安田成美さん
三女を演じた伊勢佳世さん
従姉妹を演じた渚 あきさん
彼女たちが本当にすばらしかった。作者のベス・ヘンリーの意図、演出の小川絵梨子さんの意図をよく理解して、存分に演じきっていた。女性の魅力に溢れていて、すごく惹きつけられました。
このことをもっと早く皆様に声を大にして言うべきでした。。。
明日9/19@三軒茶屋シアタートラム
今週金曜日9/22@やまと芸術文化ホール
皆様もぜっひ!
好評?連載中!こちらもよろしく!!
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